極論経由で中庸めざします
一過性の思ったことばかり書いてやります
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エレカシのガストロンジャーという曲を初めて聞いたけどなんだか衝撃だったんだ #261

化けの皮を剥がしに行きたい、あいつやあの子の。


最近はブログも真面目なメールも、
ひたすらとことん長く書いてから全部消して最後の1文だけ
表に出す事が多い。

タイトルなし #260

卒論書きながら書きたい事にちょっとずつ近づいてイヤホンでは自分の所属してるバンドのとある一曲が流れてたんだけど、感極まり過ぎてパソコンで文章乱れ打ちながら号泣

良い人生だなー

夢 #259

何千人、いや数万人の前でライブをやって
奴らをガンガンに踊らせて超絶的に気持ちの良い顔させて
それでもこの場で一番気持ち良いのはこの16人だって
そうそう感情を自分の経験値として欲しい。

! #258
 

今日もすこぶる体調が悪い。
風邪がちっともよくならず、
ちゃんと市販でなく病院の風邪薬飲んでるけど、
毎日お腹の薬飲んでるし効かねーんじゃねと
思いながら飲んでるから、なおさら
プラシーボ効果で効かない気がしてるから
余計に治りが悪い。
しかも自分の経験値じゃありえない位置に口内炎登場。

むんっっっっっ!!!


夕方バイトまでの道を歩いてる時に、
無性に今まで書いてるこのブログがめちゃくちゃ
恥ずかしくなって、新しいアカウントで始めたくなった。
昔よりかは更新もあんまりしてないからアクセス減ったけど
同じバンドの人らとかサークルの人とかに見られてたら
もうむっちゃ恥ずかしい事ばっか書いてるからとにかく恥ずかしい。

自分を客観視すればするほど自分がクソ野郎って事しか分からないから、
もう主観ばっかで色々書き続けてるのは完全に自己防衛でしかないんですね、
これ。最高の自己防衛です。
最高の自己防衛ブログ!
もうコンプレックスの塊。でも自分大好き。


最近、エネルギーの発散をどこでしたらいいか分からず
色々と溜まってきている気がする。
あー、一生何だかよく分かんない強迫観念に迫られて生きて行くんだなー。

今年1年はなんだか性格が良くなかったなぁ…



宇宙戦艦ラブ #257
 
というギターウルフの新しいアルバムを
買ったけど、
奴らは何を考えてるのか結成20年以上たった今でも
やっぱ全然理解出来ないし、
毎回毎回作ってるもの違いすぎて
(否、知らない人からすれば全部一緒なんだろうけど)
え?! え?!  ってな感じ。

で、初回限定版をちゃっかり手に入れたけど
それについてたDVDも見た。
ちょうど1月に見に行ったライブの映像DVDだったので
ちょっとだけ一瞬ちらっと映っていた。
まぁ、何よりスペシャのウルフ特番に映ったやつが
家宝だし墓場行きだし
それを越えられないけど。
ちゃっかり懐かしの革ジャンもミサイルミーで
ばっちしダイブキメてた。

でも!でも!

前の速くてドシャメシャやってるやつがやっぱり好きだ!
環七とかミサイルミーとかね。
ただセイジさんのかっこよさと勢いはいつまででも尊敬に値します。




ダイノジの #256
 
大谷のブログがツイッターで回ってきたので、
チラ見したんだけど、良かった。


私はブログを書く。

日々、無駄なことから、ムキになってることまで。

衝動に任せて書く。

自分が正しいなんてまったく思ってない。

正しいと思ってないやつが

何か人様に表現することほど下品なことはない。

そんなことは分かっているんだ。

でも、分かってても書く。

全てを笑い飛ばすために書くのだ。

私は今日も生きている。

君はどうだ?


↑最後だけ引用

分かってても書くってのがいいよね。
私もそうして文章を、書く、書く。
でも最近はおざなりー


少し前のメモ 添削なし #255
 
2010年10月27日水曜日 22:01

・どれだけ客観的な視点を持ってして自分の感情を表現してたとしても

 大抵の発言は主観的なものの範疇のうちに入っている。

 その表現、言葉、ニュアンスどれをとっても選択権は自分自身にあるので

 あって、「客観的」ということはあり得ない。

 屁理屈に聞こえるかもしれないけど、客観的視点風という所から

 抜け出す事は出来ないはず。それを自分自身が描写する限り。

 要するに、冷静だったり客観的に見れてる風を装っているようで、

 それが逆に人ごとであったり自分自身の事をいまいちしっかりと

 自分の手で掴みきれていなかったり、そもそも自分の手で掴めるものが

 あるのかどうかを相手に疑問視されてしまうような事態が

 時々起こってしまうことがある。

 私は主観、万歳。と、言いたいのである。

 主観的である事がたびたび否定的にとられる場面もあるが、

 主観的である事の何がいけないのだろうか。

 きっとそれは主観的でありすぎて、客観的視点を考慮のうちに

 いれていないという事実が相手にとって「自己中」だなんて印象を

 与えてしまうだけの話で、主観的意見を誰かとの間に提示する事を

 否定しようものなら私は断じて反抗する。

 さらに屁理屈っぽい事を言うのであれば、

 主観的発言をした者にたいして、不快感を抱いたり

 「自己中だ」なんて感情を抱いたりする君の方こそ主観的すぎじゃないかい?

 (まぁ、ここで私は主観万歳だなんて言っているので、

  そういう主観的な君も、好きではあるが。)

 いやいや、じゃぁ君の言う客観的視点って何?

 自分ではない他の誰かの視点に立って物事を考えるということ?

 でもそれも、自分の思考の範囲から抜け出せてないよね。

 「〜〜だろう」から絶対抜け出せないんだよ、ねぇ。

 自分の思考出来る範囲=自分の世界であって、

 自分の想像の範囲内で考えられることは、おそらく主観のうちの入れられる。

 だって、事前に考えうることなんだもん。

 究極に客観というのは、自分の想像範囲外だ。

 だから、客観的視点だなんて中途半端な事をして、

 誰かの思考をとりいれてるような風を装うぐらいだったら、

 主観100%で行け、と思うね。


・あらゆる事象や単語「A」というものに付随する

 「○○○である」という定義。どんなものにも定義がある。

 学問をするときに、その定義である、「○○○である」の

 「○○○」に対しての疑い、「そもそも○○○で正しいのか?」

 という議論から学問を始めるのは、間違っているのだろうか。




2010年11月18日木曜日 21:27


卒論メモ

・本当に言いたい事が書かれているか

 もしくはそれがメインのような文章構成になっているか

 (相手にそれが自分の言いたい事であると伝わる言い方をしているか)


・言いたい事を言えずに周りの部分だけが書かれていないか


・世の中における「真実」という言葉を使ってきたけど、

 「真実」というよりは「私の生に対する実感という事実」に近い気がする。


・全てを受け入れるということが出来る程人間のキャパシティはでかいのか?

 そうとは思えない。だから、批判、自分とは違うという意見を述べることに

 対して何故そうもまた否定的に見られなければならないのか甚だ疑問である。


・最後のエピソード

 私をいじめた彼女も、私が違和感を覚えた彼女も、

 みんな社会人になって自分の人生を生きている。

 そんな状況が、私を掴む。ぐっと掴む。



今日は横浜で、さらっとした手触りの手帳を買った。

ロールバーンの手帳を2年間連続で使っていたけど、さよなら。

社会人になった時のために見開き1週間がちゃんとあるやつ買った。



「分かり合う」と「同じ考え」の違い #254
 
恋人同士というのは
同じ脳みその構造をしているのではなく
分かり合い、信頼で繋がっているという所で
留めておきたいものである。

しかしながら私は、
似た考えの度合いが高い方を求めてしまう。
人間ってものにおいて、自分と他者が100%の思考の共有が
不可能であるということを私は知っている。
しかしながら、それが50%よりは70%、
70%よりは90%の方が嬉しいという事も
知っている。
けれども、その思考共有度合いが高いかどうか、
低いかどうか、なんてことは
自分の勝手な憶測に留まる。
でも、似たような言葉の表現を相手がした時や、
自分の考えている事が相手の口から得られた時なんかには、
やはり思考共有度合いが高いんじゃないかと
思わされる事は必須であると考える。
この人は似た考えを持っている、と思わざるを得ない。

「信頼」という言葉を使ったが、
相手はきっと自分の言いたい事が分かってくれるだろう、
違う所もあるけれどしかし私たちは信頼のもとに成り立っている、
といったような思いが各々の中に存在しているならば、
きっとそれをもっと言葉にして表すべきである。
その結果、思考共有の度合いも確かめることができる。
確かめることが必要である、と思う。
恋人同士ならば。
(女は言葉で確かめたがる、が男はそうじゃないらしい)
(はて、脳の構造が男女で違うならば甚だ考えものだ)

でも100%により近いだけじゃ
恋人同士として面白くないことも知っている。
その差異を楽しむことこそ、
会話の醍醐味だとも思っている。
しかし、あまりにも差異を認められない事もある。
そうなると言い合いの喧嘩が始まってしまう。
その差異に対して、理解したい知りたいという姿勢を
相手に分かるように見せない場合なんかは、
きっと恋人同士として成立しなくなる時も近いだろう。

それはすごく悲しいことである。

「相手に分かるように」しなくとも、分かり合えるのが
恋人同士だよ、と誰かに悟して欲しい。
それならば、私が言葉以外のものに敏感になれるよう
努力すればいいだけの話なのだから。

「相手に分かるように」言葉にしたり、
うーん言葉にするという事が一番親切であるとは思うんだけど、
そうじゃない事もあるのでしょうか。
語らずとも、というやつでしょうか。
(まぁ、「語らずとも、」というのは、
 似た考えを持っている者同士の上にしか成り立たないと思うが。)
親切にしすぎることは、というか、
もはやそれは親切ではなくて、
意見の押しつけ?

私は今まで意見の押しつけをしてきたのか。

「分かり合う」
「信頼し合っている」
それゆえの「思考共有」
これらの言葉の意味と、
「同じ思考回路である」 
という言葉の意味が
同じであると勘違いしてはいけない
ということなのか。
うーん、忘れないようにしたい。

双子みたいに同じ構造してたら
それはそれで楽しいんだろうけど。
そんなの不可能か…
しかし類は友を呼ぶのである。

恋人同士ならば、
相手の思考回路に立って
会話を作って行くということが大事ということで
締めくくって良いもんだろうか。
まぁ確かに、
自分と同じように考えろというのは全く持っておかしな話であるが。
むしろ相手の思考回路に立って物事を
考える事ができなくなったら、
その恋人たちは自分たちが恋人たちであるということを
諦めた方が賢明なのかもしれない。

とりあえず今は悲しい。
上記とは全く関係ないが、
ほんのちょっとした事を誉めてもらえず
頭ごなしに一言否定されたからって
凹むのはよしたい。
言い返さなかった自分が悪い。


っていうかこんなタイプの記事書いたの始めて。
よくない。


人との会話 #246
 
使ってる言葉の定義が
相対的すぎてめちゃくちゃ多義的になってる人と
会話するの疲れる。
君の核心が全く持って見えない!

「分かんないよねぇ」じゃなくて
君自身の意見を聞かせてくれよ!
本気になって取り組んでる事ならさあ!
ねえ何で熱くならないの?
本気になってんのに熱くならないってどんな感じさ?




否定すんならやってみて。
っていう言葉に色々と矛盾があるのは
知ってるけどさ、
っていうか一言だけ言ったその言葉が
否定の言葉それだけって何それ。
君が私を嫌いじゃないのは知ってるけど、
時々君から発される深刻な言葉は
私を否定するものばかりだよ。ねぇ。
どうしたら誉めてくれる?
あの子みたいにセンスのいいもの
作ったら誉めてくれる?ねえ?

あーもうほんとにイライラして寝れない



雨ですねー #253
 
雨だと色々やる気をそがれるのは小さい時から変わりませんことよ。
第一に、家から駅までが遠いっていうのが8割ぐらいを占めてる。

・思ったこと1

人の時間に対する感覚っていうのはもの凄く違っていて、
例えば私なんかは、他の人を見ていて
半年ばかりで使う言葉が変わったりとか思考が変わっている人を見ると
なにかもやっとした気分になる。やたらカタカナ用語が使われていたりとか。
そう簡単に人は変わらないっていう前提で人間を見てるからなのかも
しれないけど、きっと周りから影響されてるんだろうなと思ってしまう。

けど、別に他人から影響される事が悪いことだとは思わない。
むしろ他人から全く影響される事なく暮らしていける人がいるなら友達になりたい。
だけど半年そこらで表現や行動が変わる上記のような人が現れるともやっとする。
(表現や行動が変わっただけで、きっと本質は変わってないはずなのに、
 もっとそこを表現してくれたらいいのになーとかも思う。)
影響を与えてる人が、歴史上の人物だったらかっこいいのか、
そういう訳でもない。もしかしたらそれは先輩だとか、偶然出会った誰かかもしれない。
そこに差は付けるものではないはず。
まぁ個人的に好き嫌いってのはあるけども。

半年ばかりじゃ人は変わらないなんて言ってるけど、
長い目で見て、ここ10年で私は確実に変わった。
とある先生には全く変わらないとつい昨日言われたけど、
そこは昔から芯のある子だったっていう事でポジティブに解釈してしまおう。
だから変わらないなんてあり得ないんだろうけど、
なんだかなー、半年そこらで変わってしまう人を見るとただもやもやしてしまうのは、
きっと私の中にある○○像が変わった事への違和感っていうのも多分ある。

10年単位で見たら、10年も前のことで
自分への不和を感じさせる事があったとしても許せるぐらいの器の広さで
いれるってだけの事で、こういう事に対しては器は広く保っておきたい。
いや保てないからここに書いてるんだけど。

ただ影響されうるその人への矢印がただ1つとか2つとかの人は
結構見てて分かるというか、やっぱ矢印は50個くらいあった方が良い。
50個っていうか、まあ沢山てことだけど。
そういう点で、ださい人間にはなりたくないなーと常に思っている。
多分私もそういう時はあるはずだ。だから、
そういう人は自分も含まれてるかもしれない。
矢印の内容は人でも経験でも芸術でも何でも良い。
そうなるとどんどん自分が中性になってくんじゃないかとも思うけど、
入ってきた矢印50個が全部それぞれ50個自分から出てるんじゃなくて、
自分から出て行く矢印はなるべく(必ずと言いたいとこだけど)1つの矢印で
ありたいと思う。んで、ちょっと年季が入ってる方がいい。

上で書いた「もやっとする」っていうのは、
入ってきた矢印がそのまま調理されずにぴょんぴょん出ちゃってる人の
ことを言う。
年季が入ってる方がいいとか、
自分はやっぱり古いのかもしれない。
「寝かす」っていう行為はとても大事だと思う。
そういう時間に対する考え方らしい私は。

・思ったこと2

この間、「これも自分と認めざるを得ない展」と「ゴッホ展」と「独立展」
に行ってきた。
美術展というものに行ったのは人生で多分4回目とかその辺。
私は普段そういうのに全然行きません。
芸術に関する知識も、テクノロジーに関する知識も全然ないので
内容がどうとかそういうコメントは出来ないですが、
1つだけ言うと、ゴッホのかっこいい所は
最初絵を書き始めた時に独学でやったっていう所に限ります。
独学で頂点に上りつめる人最高。

まぁそれは置いといて、こういうのを見てると自分も絵を描きたくなる。
私は音楽が大好きなのでかっこいい音楽を聞いてると、
自分もやろうと思う。だからバンドをやっている。
しかし、本当はガレージロックが世界で一番好きなのに、
ガレージバンドを組んでガレージロックをやっていない、
かつガレージイベントでDJをしてない自分は
すごく恥ずかしい事だと思っている。実は凄くそれを恥じている。
ガレージが好きだ好きだ大好きだと言ってるけど、
やっぱりガレージバンドやってる友達が言うガレージが好きとは
格が違うんじゃないかと思ってしまう。

「聞く」のが好きなのと、「演奏する」のが好きなのとは違う話なんだと
誰かは言うかもしれないけど、死ぬほど好きだったらどっちも経験せねばならないと
思うのは私が欲張りな性格だからという事で片付けられるもんなんだろうか。
でもこれだけは言えるのは、
いつまでも受動的でそれを享受してる人のそれに対する感情の濃さと、
能動的に関わってる人のそれに対する感情の濃さは言うまでもないと思うんです。

だからどうしても美術展に行って、絵画だとか作品だとかを見ていても
なんだか煮え切らない気分になるのはこのせいだ。
だけどこの間、美術展に思ってびっくりしたのは、
想像していたより見に来てる人が多かったという事。
けど、そこに来てる人ほとんどは実際自分で絵を描いてる人じゃないと思う。
彼らは、「見る」のが好きな人たちなんだろうか?
「見る」「聞く」のが好きな人たちは、
どんな気持ちで美術展に行ったりしてるんだろうーと純粋に思ったりした。
誰でもいいのでご意見聞かせて下さい。
日々アクセスが割とあることは知っています笑

好きなものにはやっぱり自分が能動的に関わるっていう行為が
ホントに大切だと思ったわけです。
能動的に関わったらもっと幸せな感動があると断言出来るし、
そっちの方が熱くて衝撃的で君を豊かにすると思ってる。
なので、美術美学専攻の人とか、なんでもっと絵描かないんだろう、
音楽作らないんだろうって思ってしまう。

これからもやるからにはそれを享受するだけじゃないような
関わり方をしていきたいです。
それから来年から書籍の制作の立場に携われる事を誇りに思います。
(なんか作文みたいな終わり方でダサい笑)